マスク着用を巡って国内でも色々な考えが交錯しています。一般的に欧米とアジア、中でも日本とでは、このことに関して考え方に大きな隔たりがあると今更ながら実感します。
元々我国は、アジア諸国の中でも相対的に同調圧力が強く、ムラ社会的な意識が根強いのが特徴です。これに比して欧米諸国は勿論のこと、中国なども本音ベースでは、リスクとベネフィットを自ら判断して、その可否を自分で決定し、結果もまた自分で負うというメンタリティを個々人が強く持っています。
先日読んだある評論で、日本社会においては、集団の中に埋没していると安心感があり、楽であるという感覚が強いということが指摘されていましたが、これはかつて私自身がメキシコに数年暮らした後、帰国する際に感じたものと正に一致します。
メキシコからの帰国途上でニューヨークからJALに乗り換えた際、機内の日本人CAの笑顔での出迎えに「ああ、もうここは日本なのだな」とほっと安堵した事を思い出します。
海外にいると常に個の自分を強く知覚し、他人との区別や違いを意識するものです。これはその国では自分が異邦人であるからということだけではなく、人々のマインドが、単純に集団の意識に流されるのではなく、個の認識が常に大切にされているという社会性の違いであると考えます。
従って何事においても常に、自分自身の判断や考えが求められるので(国際会議などで日本人が一般的に苦手としている一面でもあります)、常に一定の緊張状態を保っておく必要はあるのですが、一方で同調圧力は相対的に少なく、その点では余計な気遣いは要らず、楽な面もあります。
日本社会では、周辺環境の中に埋没し、自己主張をしなければことさら気張る必要もなく気楽な面はあり、事実私自身も帰国した際に、日本社会に再び「潜り込んだ」ことによって一息ついたのは事実ですが、元々自己主張がやや強い私にとっては、海外での活動は刺激的でもあり、また束縛が少なくかつ他人への過剰な気遣いもいらず、魅力的な一面を持っています(あくまでも「過剰な忖度はいらない」という意味であり、大人の社会人としての互いの心遣いは、相手に敬意を持って接するという意味で、むしろ日本より自然体で、かつ大きいとも言えます)。
日本社会の特徴はやはり、個々人が必ずしも自立した社会人としてではなく互いにもたれ合う、良くも悪くも甘えの構造のもとに成り立っていると言って良いのかもしれません。
蛇足ながら、やはり私がかつて暮らした北海道の文化風土は、少し海外の感覚に似ているところがありました。彼の地の近代の歴史の始まりは移民であり、よってしがらみが少ないということが影響しているのかもしれません。
翻って、これからの日本は自分の国の文化の良い面は大切にしつつも、真の意味での大人の文化をより目指していくべきではないかと考えます。
マスクの話からどんどん風呂敷が広がってしまいましたが、いずれにせよ我が国でも汗ばむ季節となる初夏までには、マスク着用は本当の意味で任意になって貰いたいと切に願っています。