最近、テレビでも新聞でも、個人間の会話でもやたらと「させていただく」が多用されていると感じます。本来「させていただく」は、(権威や権限がある目上の)相手に許可や許しを取って行動する場合の表現ではないかと思われますが、最近はそれ以外のあらゆる場面で使用されており、中高年以上の世代は、やや違和感を抱いているのではないでしょうか?
この言い方は、若い人を中心に自分一人で行動したり発言できる場合でも使っている場面が多いと思います。
言語に詳しいある専門家によれば、この傾向は、「敬意漸減」(使われるうちに段々と敬語的な意味合いが減少し、敬語として使いにくくなると別の言葉に移行していく現象)だそうである。 典型的な言語としては、「貴様」という言葉は、本来目上の人に使う言葉だったが、今は同僚等に使うやや粗野なイメージの言葉となっている。そもそも言葉は生き物なので、その時代時代の考え方や行動様式に大きく影響を受けて変化していくものなので、どの表現が正しいとか誤っているとかの正誤の概念にそぐわないものとこと。若者の意識では、「相手を傷つけない様に距離感を取って話したり、接したりする傾向があり、相手も自分も傷つかない様にバリアを貼っているような表現方法であり、心理的な距離感を保てる方法」と分析していました。
しかし、中高年の私にとっては、やや違和感を感じる言い方で、すべてのことに対して他人からの許可や承認を求めている様に聞こえます。このような言葉を繰り返し使っていると、段々と先方の許可や承諾がないと発言や行動ができなくなりはしないかと余計なお世話であるが、心配になります。
日本人は、世界中からいい印象を持たれているが、言い換えれば「お人良し」ばかりになっているかも知れず、穿った見方をすれば、他国の貪欲で図々しい人々に劣後してしまうのではとも思います。
こう漠然と思っていたら、新聞に「何かあったらどうする症候群」とのコラムが掲載されていました。
それは、元陸上選手の為末氏が発信している説で「日本は、何事も何かあったらどうすると考え、未来を予測してコントロールするため逆算でしか物事を判断せず、その結果、予想外の事態が発生すると慌てる。この状態から抜け出すためには、まず、やってみようの発想が大切」との提案です。
「させていただく」も「何かあったらどうする」もリスク回避型の発想ではないか?
この様な発想が日本に主流となり、知らず知らずのうちに後ろ向きのリスク回避型、他者他人に承諾を得ないと実行しないやり方が身についてしまうと、国全体の発信力や革新力が衰えて行くのでないかと感じています。
そもそも世の中は不確実性の塊の様なものなので、可能性にチャレンジすることが肝要ではないかとも思っています。 特に年を取ると「何かあったらどうする」傾向が強まるので、自ら意識する必要があると同時に、若者の新しい発想やチャレンジングな挑戦を邪魔しない気持ちも大切ではないかと考えます。